ゼロからはじめる小説同人誌 の、猫の巻。

「虎の巻(「芸事などが上達する秘訣を記した書」)」には及ばないけど、でも、ほんとのことだけ記していくよ! 小説同人誌にまつわるそんな心意気を、もりもりこめたブログです。

表現の方針は個性。

 

こんにちは。

猫宮ゆりです。

 

 

先日、「第二回明石家紅白!」というテレビ番組を観ていて、

面白いなと感じたことがありました。

 

 

番組は、さんまさんがゲストたちとトークを展開し、

そしてゲストがそれぞれの持ち歌を披露するという流れだったのですが、

ゆずのお二人と話していて、「夏色」の歌詞の話題になった折、

 

 

さんまさん「俺とか宇崎さん(同席のゲスト竜童氏)の世代は、

ブレーキいっぱい握りしめて~ってとこいらんねん。

自分で鼻歌で歌う時そこ飛ばしてる」

 

という意味のことを言いました。

その理由は、

 

「女の子自転車の後ろに乗せて坂道ゆっくり下ってるんだから、

ブレーキ握ってることは言われなくてもわかる」

 

これには、ゆずのお二人は「えーーー(;´Д`)」「そこいりますよ!」

というような反応でしたが、

わたしは、さんまさんの感じかたもすごくわかるなあ、と

感じました。

 

また、さんまさんは

「いるにしても、『ブレーキいっぱい』とは男はよう言わん、

『ブレーキきつく』とかやな」

というようなことも言い、

「ブレーキきつく握ったら(坂道だから)止まっちゃいますよ!」

とつっこみを受けていたり。

 

でも最終的には、

ゆずのお二人がその場で「夏色」を披露し、さんまさんや

他ゲストの面々もタンバリンを持って盛り上がったのち、

 

さんまさん

「やっぱりブレーキ(のところ)いるな!」

と認めていて。

 

 

すごく面白いなー、と感じました。

これは文章や小説の世界でも永遠のテーマのひとつです。

 

 

無駄な部分を徹底して削り、端的で精緻な描写を目指すか。

 

あえて冗長な箇所や余韻も生かし、味わいと拡がりのある世界を描くか。

 

 

「夏色」がもし自分の小説だったとしたら、

件の「ブレーキいっぱい」のところをどうするか、

それは書き手の個性が大いににじみ出る部分でしょう。

 

ブレーキを握りしめていることは読めばわかるから省く人、

そこは絶対削れない!とブレーキの描写を入れる人、

さまざまだと思います。

これはもう、どこまでいっても「個性」の話。

 

描写を入れない方が簡潔で高尚か、

入れる方が情緒を帯びて美しいか、

入れるにしたらどんな言葉でそれを表すのか。

そこに正答はありません。

ただ、どの選択をするか、それこそがその書き手の「個性」です。

 

たとえば、

文豪と言われる作家の小説などでも、

明らかに「ここはいらなかったんじゃないか」と感じる文節や

過剰に思える句読点が存在するように見える場合がありますよね。

でも、それを推敲してしまうと途端に、

めっちゃくちゃつまらない代物になり下がる。

元が同じ作品とは思えないぐらい、魂が抜けたみたいに

退屈な雑文になってしまう。

 

正確な文章、というものはもちろんありますが、

それ以上にその書き手それぞれの個性や味がものを言うのが

文章表現なのでしょう。

 

今は特に、データ原稿が普及して大規模な推敲も手軽に

できるようになり、

自分の味を削りすぎてしまう書き手さんも多いように感じています。

自分の個性に胸をはって表現することを、もっと愉しんでもいのでは

ないかな、とわたしは思います。

 

 

猫宮ゆり

ゼロからはじめる小説同人誌

http://noveldoujin.wixsite.com/novel-doujin